青天を衝く、日本資本主義の父と母

 海運業を巡って渋沢と岩崎は死闘を繰り返す。共倒れ寸前、国益を語る五代の仲介で和解となる。NHK大河ドラマ「青天を衝け」も終盤となった。主人公の渋沢栄一(1840-1931、没年91歳)は維新と言う動乱期を西洋の手法を駆使して日本の商業を改革していく。資本主義の父、その名に近づいてきた。渋沢の転機は慶喜の家臣になったこと。幕府の家臣としてパリの万国博覧会(1867)に随行できたことにある。目にしたものは先進的な産業(技術)と諸制度(政治と経営)だった。パリで学んだことを日本で実践する。旧体制の抵抗をぶち破る戦いだった。日本資本主義の父と言われた所以は、広く出資者を集める株式制度の導入だった。弱者救済制度はパリで見た光景だった。彼の思想は「論語と算盤」に代表されるように経済活動と道徳行為の共存だった。国民みんなの力で日本を発展させることが栄一の理念だった。

 渋沢栄一のライバルは下級武士の出身で岩崎家9代目岩崎弥太郎(1835-1885、没年50歳)である。彼は幼少時代から気性が荒く負けず嫌いだった。役人と衝突が効を奏してして24歳で土佐藩の役人に取り立てられた。長崎駐在を命じられ欧米の商人を相手に輸出入の交渉を経験した。35歳で藩船3隻を借り受け、大阪で海運業の九十九(つくも)商会を設立、社名を三菱商会さらに郵船汽船三菱商会と改め海運業で頭角を現す。西南戦争で政府軍の輸送にあたり海運業で王座の地位を不動にした。その後、国家的見地に立ち鉱山経営・造船・倉庫業・銀行・保険業と事業の多角化を図っていった。弥太郎は1885年胃がんで50歳で死んでいる。三菱の事業は弟・弥之助が引き継ぎ、現在の三菱グループとなっている。岩崎の経営理念は君主のような力(才覚)あるリーダー(個人)が事業を牽引すべきというものだった。

 渋沢栄一が日本資本主義の父なら、岩崎は日本資本主義の母と言える。父と母が私たちを育てたのだ。2人の多くの株式会社が日本経済を支配していったからだ。私も6年前、M&Aをやってみて気付いた。株主(出資者)による株式数が企業の支配者であることに気付いた。2人の出発点は違う。渋沢は日本を、株式を通してみんなで一等国にすることだった。弥太郎は日本を権威(三菱)の力で一等国にすることだった。現在におけるワンマン経営が正しいか、集団指導経営が正しいか、の違いが経営の出発点となる。いずれにしても現在の日本経済は2人の後継企業の基盤の上にある。2人に限って言えば私は50歳で死んだ岩崎より90歳まで生きた渋沢に軍配を上げる。いくら立派な経営者だって短命では人生を成功したとは言えないと思うからだ。今日の私は私が嫌いな評論家でした。